三国志といえば、お馴染みの関羽千里行(せんりこう)っていったい何!?
関羽といえば、曹操が太鼓判を押すほどの忠義の武将です。
彼が貫いた義兄弟である劉備に対する忠義は、今でも多くの人に尊敬される所以ですね。
その関羽の忠義の深さを印象づけたのが、関羽の千里行です。
しかし、どうして千里の道を走ることになったのでしょうか。どこからどこまで行ったのでしょう?
意外と知らない千里行について、見てみることにしましょう。
関羽の千里行とは
千里行に至るまで
200年に曹操軍によって劉備が敗走した戦により、関羽は捕虜となりました(劉備は袁紹のもとへ逃げおおせました)。
捕虜とはいえ、曹操は関羽を厚遇し偏将軍にも任命しています。関羽はそれに恩を感じ、官渡の戦いにおいては敵将の顔良(がんりょう)を斬って捨てる功績を挙げ、曹操のために働きました。
曹操はまたも多くの恩賞を与えますが、関羽はそれに封をすると、お礼の手紙を残して曹操のもとを去ったのです。追っ手を差し向けようとする部下を、曹操は止めました。彼は、関羽が劉備のもとへ戻っていくことを理解したのでした。
そこから、関羽が劉備のもとを目指して馬を走らせる旅が始まるのです。これが、「関羽の千里行」です。ちなみに、これ以降は三国志演義での話になります。
千里行の過程
関羽は次々と関所を突破し、そこを守る将を斬り捨てていきます。これが関羽の五関突破です。
東嶺関(とうれいかん)の孔秀(こうしゅう)、洛陽の韓福(かんふく)、沂水関(きすいかん)の卞喜(べんき)、滎陽(けいよう)の王稙(おうしょく)、黄河の秦琪(しんき)と、5人の将を次々と打ち破っていきます。
最後には魏の猛将:夏候惇(かこうとん)が待ち受けており、刃を交えますが、そこに張遼(ちょうりょう)が曹操の言葉を携えて駆け付け、戦いは中止となり、関羽は再び劉備のもとへ向かうことになります。
しかしそこで、汝南(じょなん)で山賊をしている張飛の消息が判明し、関羽はそちらへ向かい、張飛と再会します。
そして、2人で劉備の所へ帰参したのでした。
いったいどこからどこまで行ったのか
当時、曹操の本拠地は許都(きょと・現在の河南省許昌市)でした。まず、関羽はそこから西の洛陽(現在の河南省洛陽市)へ走ります。そこに至る途中に東嶺関がありました。
洛陽へ達すると、今度目指したのは沂水関(山東省)です。西へ進んでいたのに突然東へ進路を変えているので、ちょっとおかしな感じがします。
加えて、次に目指した滎陽は現在の河南省鄭州市になるので、山東省からはまたもUターンすることになるのです。
そして、黄河を渡ろうとしたのか、滑州(かつしゅう)に来ます。ここは滎陽よりも北にある場所です。
そこで秦琪を斬った後、張飛が汝南(河南省)にいるという消息を得て、ついに最終目的地を見つけた関羽はそこを目指すのですが、汝南はずっとずっと南にあったのです。
おかしな遠回りでしたが、関羽はようやく許都から汝南へとたどり着きました。
これを地図にすると、西と東を行ったり来たり、南北を往復するという、全く意味不明なルートになってしまいます。
この時の走行距離はなんと1000里超え!?
当時は、1里は414.72mでした。そのため、1000里=414.72kmとなります。
実際に関羽が1000里走ったのかということですが、前述の通りの摩訶不思議なルートをすべて換算すると、1000kmはゆうに超えてしまい、1000里をはるかに上回ってしまいます。
ただ、「千里」とは長い距離やきわめて遠い距離を指す言葉でもあるので、この意味で考えられ、関羽千里行と呼ばれているのではないでしょうか。
まとめ
しかし、どうしてあのような不思議なルートを通ったのでしょうか。
実際に中国の地図を見ながら辿ってみると謎はますます深まります。
しかしきっと、関羽の強さとカッコ良さ、そして劉備への忠義の想いを伝えるための、演義ならではの演出なのでしょうね。実際、素敵です!
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