姜維による北伐 が蜀の滅亡の原因となった!?
北伐というと、諸葛亮が行ったイメージが強いかと思いますが、その後は姜維が行っています。
実は回数も相当なもので、6~8回くらい行っているのです。
それでは、姜維は北伐で成果を挙げることができたのでしょうか。そもそも、なぜ姜維は北伐を行ったのでしょうか。
衰えゆく蜀においてひときわ存在感を放った彼の目的を、探ってみましょう。
姜維が北伐を行った理由
姜維は涼州の人で、元々は魏に仕える身でした。
しかし、228年の諸葛亮の北伐の際に、蜀へ投降します。その後、諸葛亮の元で頭角を現すようになりました。
諸葛亮の北伐に従軍していた姜維ですが、五丈原で諸葛亮は没してしまいます。
そこで、姜維は諸葛亮の遺志を継ぎ、蜀の再興のために北伐を継続しようと思い立ちました。
ところが、当時政権中枢にあった費禕(ひい)の反対に遭い、1万以上の兵を与えられることがありませんでした。
そのため、姜維が積極的な北伐を開始したのは、費禕の死後のことになります。
北伐での成果
初めのうちこそ、徐質(じょしつ)や王経(おうけい)といった魏将を討ち取り、戦果があった北伐ですが、256年の段谷(だんこく)の戦いで魏の鄧艾(とうがい)に大敗してからは、だんだんとうまくいかなくなっていきます。
自国内からも北伐に対する疑問の声が上がり始め、姜維はここで北伐をいったん中断しました。
その後、262年に再開された北伐でもまたしても鄧艾に敗れてしまい、姜維は朝廷内で完全に孤立してしまいます。
諸葛亮の北伐も成果は上がりませんでしたが、姜維が行った北伐は、成果などまったくなかったといっていいほどの結果となりました。
この北伐は無謀!?
段谷の戦いで鄧艾に敗れてから、蜀の国内からも北伐の無謀さを指摘する声が上がるほどでした。
実際、諸葛亮の死後も人材に恵まれなかった蜀では、その質の低下が見られるようになっていきます。
一方、北伐の相手となる魏はというと、国力が安定したため人口が増え、人材の育成にも余裕がありました。
260年頃の統計によると、魏の人口は440万、対する蜀は94万です。
これを見ても、国力の差は明らかでそもそも魏を倒すということ自体が荒唐無稽な話であったことがわかります。
北伐によって、蜀の命運は変わった!?
北伐によって国力が低下したという説もある反面、北伐を行っていてもいなくても、どのみち蜀はすぐに滅亡したという見方もあります。
国力の差を見ればそれは明らかな話で、もし魏が積極的に外征に出てきたら、蜀はひとたまりもなかったはずです。
また、蜀の朝廷内では、皇帝劉禅(りゅうぜん)が宦官の黄皓(こうこう)を重用し、専横を招いていました。このこともあり、すでに蜀の内政は滅茶苦茶になっていたというわけです。
姜維の北伐も要因のひとつにはなるかもしれませんが、どのみち蜀の滅亡という道筋は変わらなかったと思われます。
まとめ
姜維はあまりにも軍事しか見ていませんでした。そのことに加え、彼が魏出身でいわゆる外様であったことも政治家たちの反発を招いたのでしょう。
劉禅が降伏し蜀が滅亡してからも、姜維は蜀の復興を諦めようとはしませんでした。
忠義に生きた人物ですが、不器用な面が不利に働いてしまったのかなと思いますね。
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