徐晃の死因は戦死だった!? 樊城の戦い以降の晩年に迫る!
魏の五将軍にも名を連ねた名将:徐晃。
彼は曹操のもとで数多の戦功を挙げ、中でも関羽を破った樊城の戦いでは一番の活躍を見せています。
そんな彼の最期とは、どのようなものだったのでしょうか。やはり戦場で散ったのか、それとも病死か……。
正史と演義の違いも気になりますよね。双方見ていきましょう。
樊城の戦い以降
徐晃は、樊城の戦い(219年)以降も戦場に立っていたようです。
220年には夏侯尚、そして蜀からの降将:孟達と共に、上庸を攻撃。ここで劉封らを破っています。
また、孫権が襄陽(じょうよう)へ陳邵(ちん しょう)を派遣した時も、曹仁と共にこれを撃破。明帝:曹叡の代にはこの襄陽にて、諸葛瑾を防ぎました。
これは226年ごろで、徐晃の戦の記録はこれが最後になっています。
病にて亡くなる
徐晃は病が重くなると、時節の衣服で身を包むよう遺言し、227年に亡くなりました。
樊城の戦い以後も戦場へ赴いていますから、彼の晩年は、穏やかとは言い難いものだったようです。
生年が不明のため享年も分からないのですが、彼は曹操に帰順する前に李カクの部下である楊奉(よう ほう)に仕えていました。
この時、徐晃は献帝とともに洛陽へ戻る事を、楊奉に進言しています。
196年の時点で青年であることを考えると、早世という若さではなかったと思います。
壮侯と諡(おくりな)され、息子の徐蓋(じょ がい)が後を継ぎました。
「三国志演義」では戦死
正史とは異なり、228年の孟達との戦いに参加しています。
徐晃は進んで先鋒をつとめますが、孟達の矢を頭に受けた事が原因で亡くなりました。演義では59歳。司馬懿が彼の躯を洛陽に送り、葬らせています。
こちらでも彼は孟達と共闘していますから、一時とはいえ、仲間であった人物の手にかかって殺されたということになります。
手負いとはいえ、一騎打ちで関羽を退けた徐晃にしては、意外な最期ですね。
それとも、関羽を破ったからこそ、この扱いなのでしょうか……。
まとめ
曹操に帰順したこと、亡くなる直前まで戦場に居り、病が原因であったことなどから、私は張遼を連想しました。
彼も、徐晃と同じように死ぬまで戦場に立っていました。それだけ頼りにされていたということですが、徐晃もまた、同じだったのでしょう。
あれだけの戦功をうち立てたのですから、老いていても病んでいても、徐晃という人を戦場に送るだけで、抑止力になると思われたのかも知れません。
それに応えた徐晃も、本物の戦士だったのでしょうね。
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