龐徳の決意の表れ? 戦場へ棺を作ってから出陣した理由とは

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魏の武将:龐徳は、「三国志演義」第74回にて、棺を用意した上で戦に赴くという行動をとっています。

棺と聞くと、ちょっとドキッとしますね。不吉な感じもするのですが、一体何故、彼はそのようなことをしたのでしょうか。

そのきっかけから、最後には棺がどうなったのか、そして、正史との違いもご紹介します。

まずは、三国志演義での龐徳からです。

演義での龐徳

龐徳は最初、西涼の太守:馬超の腹心として登場します。

曹操による漢中攻めの際、龐徳は落とし穴に落ちて生け捕りにされ、曹操に降伏。

以後は魏の武将として、濡須(じゅしゅ)では呉の陳武を討ち、漢中攻防戦では魏延から曹操を守るなどの活躍を見せています。

事の発端

ここまでは順調でしたが、樊城救援の命を受けた時に、事は起こりました。

「龐徳は止むを得ず魏に降っており、蜀には元の主である馬超、そして龐徳の兄:龐柔(ほう じゅう)も居ることから、龐徳は寝返るのではないか?」と口にする者が出たのです。

後に曹操から改めてこの事を問われると、龐徳は流血するまで地に額を叩きつけ、「殿のご恩を忘れた事は無く、この戦で報いられると思っておりましたのに、そのようにお疑いとは情けのう御座います。兄とは縁を切っており、馬超は武のみで謀を知らず、身一つで逃れた者。恩義はとうに切れております。」と、潔白を主張しました。

そのため、曹操は龐徳にそのまま先鋒をつとめさせることにしました。

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棺を作らせる

帰宅した龐徳は、大工を呼んで棺を作らせます。

出立に臨み、部下には「私が死ねば、お前達は屍をこの棺におさめよ。もし関羽を討ち取れば、関羽を棺に納めて殿に献上するだろう。」と、決死の覚悟を伝えました。

そして、ついに戦場で関羽と対峙します。激しい一騎打ちの後、隙を突いて放った龐徳の矢が、関羽の左腕に命中。しかし、龐徳の戦功を恐れた于禁は、追撃を許しませんでした。

魏軍はその後、水攻めのために総崩れ。于禁は早々に降伏し、龐徳が飛び乗った小舟は周倉によってひっくり返されてしまい、ついには生け捕られてしまったのです。

誓いを守った最期

関羽より降伏をすすめられた龐徳は、「殺される方がましだ」と罵り続け、自ら首を差し伸べて刑を受けています。

関羽は龐徳の死を惜しみ、手厚く葬らせました。于禁とは対照的な姿を見て、義心を感じとったのかも知れませんね。

棺の話は創作ですが、正史にも諸将から疑われていたことが記載されています。

そこで龐徳は、「私は国恩を受けており、道義から言って死を捧げなければならない。今年関羽を殺さなければ、関羽が私を殺すだろう。」と、覚悟を表しています。そして、この言葉通り、最期は降伏を拒んだのです。

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まとめ

龐徳の棺は、決死の覚悟を表したものでした。自分か敵、どちらか一方が入るのみで、空のまま戻りはしない、ということだったのです。

私がこの話を聞いて思い出したのは、伊達政宗です。白装束を着て小田原に参陣した話ですね。(金の磔柱の方じゃないです・笑)腹をくくった様子が目に見えるというのは、言葉以上に、その決心の度合いが感じられるのかも知れません。あまり派手過ぎるとパフォーマンスになってしまいますが、やる方は必死だったのでしょう。

何かを通じて訴えかけるというのは、意外にも大きな影響力があるものですね。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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