諸葛亮が行った北伐の回数は何回!? その戦果は全て失敗だった?

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北に敵国がある場合にそこを攻めることを北伐と言います。

そのため、本当は中国史上には様々な北伐がありますが、やはり北伐というと、まず思い浮かべるのが、三国時代の蜀漢の北伐かもしれません。

蜀漢の北伐も、何人かの武将が行っており、全部合わせると相当な回数になります。

今回は、諸葛亮が行った北伐について見てみましょう。

諸葛亮が北伐を行った目的

このときすでに劉備は亡くなっており、息子の劉禅が後を継いでいました。劉備が蜀を起こした目的は、「漢王朝の再興」です。主君の遺志を受け継ぐため、諸葛亮は北伐を決意したのでした。

その決意を、「出師表」として彼は劉禅に奏上します。劉備に受けた恩義と報恩の思いが述べられたこの文章は、名文中の名文と言われており、諸葛亮の遺言ではないかという説さえ唱えられています。

そんな熱い思いを込めて、諸葛亮は北伐を開始しました。

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北伐の経過と戦果

第1次:228年春

蜀軍は魏の三郡(南安・天水・安定)を制し、天水を守っていた姜維を降伏させ味方へと引き入れます。経過は順調に見えましたが、街亭の戦いにおいて馬謖が魏軍の老将・張郃(ちょうこう)に大敗し、蜀は全面撤退を余儀なくされました。馬謖は指示に背き山上に布陣したため、張郃に水路を断たれてしまい窮地に追い込まれたのです。

諸葛亮は敗因となった馬謖を死罪とし、ここで「泣いて馬謖を斬る」という故事が生まれました。

第2次:228年冬

諸葛亮は数万の軍を率いて漢中から出撃し、魏将の郝昭(かくしょう)とわずか1000人余りが守る陳倉城を包囲します。攻城兵器を用いたり、トンネルを掘ったりと戦術に知恵を絞りますが、郝昭はよく守り、城は落ちません。彼と同郷の者を遣わせて説得も試みますが、それもうまくいきませんでした。

そのうちに兵糧が尽きてしまい、蜀はまたも撤退せざるを得なくなります。このとき、追撃してきた王双を討ち取っています。

第3次:229年春

諸葛亮の命を受け、陳式(ちんしょく)が武都と陰平の2郡を攻めます。魏は郭淮(かくわい)が迎撃しますが、今度は諸葛亮自身が出撃してきたため撤退し、2郡を平定することに成功しました。

第4次:231年

2月に、諸葛亮は祁山(れいざん)を包囲し、張郃と司馬懿を撃退します。ただ、6月に大雨のため食料の輸送に失敗して、またも兵糧不足の事態に直面し、今回も撤退となりました。ただ、このときに追撃した張郃を討ち取るという大きな戦果を挙げています。

第5次:234年

諸葛亮は五丈原に布陣し、兵糧不足を打開するために屯田を行い、長期戦に持ち込む狙いでした。魏軍の将は司馬懿で、渭水の南に砦を構え、防備を固めます。彼は蜀軍の慢性的な兵糧不足を見抜いており、諸葛亮の仕掛ける挑発や陽動作戦には乗りませんでした。

その間に諸葛亮は病を得て、8月に陣没してしまい、蜀軍は撤退します。この際に司馬懿は追撃しますが、蜀軍が反撃の様子を見せたために退きます。これに基づいた故事が、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」となるのです。

まとめ

結果的に北伐は失敗でした。この後蜀は衰退の一途をたどり、一方の魏では司馬懿が勢力を増し、西晋の礎を築くことになります。蜀の国力からすれば、北伐は無謀な策だったかもしれません。

しかし、諸葛亮にとっては、自分を見出してくれた劉備の深い恩に報いたいという思いが本当に強かったのでしょうね。悲壮感漂う戦いだったように思います。

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xiao

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投稿者プロフィール

イケメンでインテリで強い男が好きです。その中に人間の可愛げがあったら最高です。
三国志にはそんな人物が多すぎて、誰が一番なんて言ってられないのが現状です。
そんな魅力的な歴史絵巻を、わかりやすくお伝えできたらと思っています。
動物好きのため、赤兎馬に憧れています。

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