長坂の戦い 趙雲はどうやって、阿斗を救出した!?
三国志演義の中ではハイライト的な戦いとして扱われることが多いのが、長坂の戦いです。
そして、趙雲が多くのファンを獲得するきっかけとなった戦いでもありますね。忠義心にあふれ、勇敢な将はいつの世の中でもヒーローです。
それでは、趙雲は、そこでいったいどんな活躍をしたのでしょうか。そのあたりを見ていきたいと思います。
長坂の戦いとは
208年、荊州(けいしゅう)を治めていた劉表(りゅうひょう)が病没し、この地は一気に内紛へと突入しました。
そして、荊州への進出を目論んでいた曹操にとっても、格好のチャンスとなったのです。
当時、劉備は劉表のもとに客将として身を寄せていました。彼は江陵へと向かいますが、それを曹操が追撃します。
ついに長坂で追いつかれ、戦闘となったのが長坂の戦いでした。
阿斗(あと)が取り残されてしまった理由
劉備が引き連れていたのは配下の兵だけではありませんでした。
彼の人徳を慕った一般民衆、そして劉備の夫人や幼い息子・阿斗(後の劉禅)もいたのです。
そのため行軍は遅々として進まず、あっという間に曹操軍に追いつかれてしまいました。
とにかく、劉備は逃げなければなりません。それには、やむを得ず行軍の足手まといとなる妻子でさえも置いていく決断をしなければなりませんでした。
戦場のどさくさに紛れて、離れ離れになってしまったのだとも考えられます。
劉備が阿斗を見捨てたという話の真偽
漢王朝の再興という大望がある劉備にとっては、何よりもこのことが最優先でした。
そのためには、何を犠牲にしてでも自分が生き延びなくてはならなかったのです。
もちろん劉備にとっても辛い選択だったでしょうが、妻子を捨てていかなくては、この局面を打破できないと考えたゆえの行動だったのでしょう。
趙雲の阿斗救出作戦!
この戦いといえば、趙雲が阿斗を救出したという話が有名ですが、この行動は劉備が趙雲に対して妻子の救出を命じたという記録が残っていません。
そして、三国志演義では完全に自らの意思で向かっているために史実に残る彼の忠義の深さから見ても、自分の決断で救出に向かったと考えても良いと思われます。
正史によると、救出の際に趙雲は阿斗を抱き、その生母である甘夫人を保護したとあります。
演義では、趙雲は単騎で敵陣真っただ中へ取って返し、魏兵に捕らわれた甘夫人を助けます。
そして、もう一度戦場に戻り、重傷を負った糜(び)夫人と阿斗を発見しました。糜夫人は阿斗を趙雲に託すと、負傷した自分が行軍の足手まといになりたくないと、なんと井戸に身を投げます。
趙雲は阿斗を連れて劉備の元に帰り、劉備はいたく感激したということです。
まとめ
演義ではこの後に続く話があり、そこでは、劉備が「お前のせいで大事な将を失うところだった!」と阿斗を地面に投げつけています。びっくりしますが、趙雲がそれだけ勇猛で大切な将軍だったということなのでしょう。
ちなみに、阿斗は後にも劉備の後妻・孫夫人に呉へ連れて行かれそうになり、またも趙雲に助けられているのです。
この活躍のため、中国各地には、阿斗を抱いた趙雲像が建立されているそうですよ。
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