魏の武将:龐徳は、元々、馬騰・馬超親子の傘下に居た武将でした。
2人が別れたタイミングは、馬超が劉備に降伏した時なのですが、どちらの伝にも詳しい理由が明記されていないのです。
この2人は何故、離れてしまったのでしょうか。何か、確執があったのでしょうか?
今回はその謎を探るため、2人の出会いから詳しく見ていきます。
馬超との出会い
最初、龐徳は馬超の父である馬騰に付き従い、多くの戦功を挙げていました。馬騰軍では随一の武勇を誇っていたそうです。
202年、曹操への援軍として、郭援(かく えん)・高幹を破っていますが、この時に龐徳を率いていたのが、馬騰の息子:馬超でした。
208年に馬騰が入朝すると、軍を引き継いだ馬超にそのまま仕えています。
馬超に付き従う
211年、馬超は潼関の戦いに敗れると、翌年、隴上(ろうじょう)で蜂起。しかし、反乱した楊阜らの計にかかり、本拠地を失います。再起をはかるも失敗し、今度は漢中の張魯のもとへ逃亡。馬超はそこでも居心地が悪かったようです。
それまで龐徳は馬超に付き従っていましたが、214年に馬超が出奔して劉備に帰順すると、彼はそのまま張魯のもとに残ったのです。
龐徳は何故、馬超について行かなかったのでしょうか。
仲違いをしていた?
龐徳は、主が馬超になったところから苦難続きでした。おまけに元の主は馬超の反乱のせいで殺されています。仮に、馬騰が犠牲になる事を覚悟していたとしても、その後の馬超の行動に付き合いきれなくなったのかも知れません。
何にせよ、意見の対立があった可能性は高そうですよね。
「三国志演義」での龐徳と馬超
張魯のもとへ身を寄せたところは、正史と変わりません。
演義では、馬超はその後劉備軍の迎撃に向かうのですが、龐徳は病の為に参戦出来ず、漢中に留まっています。
そのため、馬超が劉備に降伏した時、龐徳は置いてけぼりを食らったのです。さぞビックリしたでしょうね……(笑)。
しかも、そこへ曹操軍が来襲。閻圃(えん ほ)の推挙によって抗戦しますが、結局、龐徳は生け捕られ、降伏しています。
演義ではこのように、”やむなく降った”という印象を受けますが、後に、馬超との関係から反逆を疑われた際、龐徳は曹操への忠誠を述べた上で、「馬超は武のみで謀を知らず、身一つで落ち延びている」と、見限っていた事を思わせるような発言をしています。……実はずっと我慢していたんでしょうか?(笑)
まとめ
お互い新たな主君のもとで上手くやっていますから、結果論ですが、別れて正解だったのでしょう。
そう思うと、やはりソリが合わなかったのかなと思いますね。
しかし、主従関係が絶たれた理由はもとより、それが明かされていないことも気になります。2人の仲についても全く書かれていないので、色々と勘ぐってしまいますね……。
それとも、最初から特別仲良くはなかったのでしょうか?
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