呂蒙の死因は討ち取られた関羽の呪い!?

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人を呪い殺すなんて、効果があると信じている人っていますか?おそらく信じているとしてもごく少数ですよね。

でも、歴史を学んでいたりすると、やたらと呪うとか祈祷するとか、そういう方向の話を見かけます。

有り得るわけないじゃん!と思いつつも、本当のところはどうなのかな…と思ったりもします。

ところで、関羽の呪いで呂蒙が死んだっていう話をご存知ですか?

呂蒙が関羽の呪いで死んだと言われる理由

これは正史にはない話で、「三国志演義」に出てくるものです。

219年の樊城の戦いの後、敗走した関羽は孫権軍に退路を阻まれ、捕えられて斬首に処せられました。

この後の祝宴で、呂蒙は第一の功労者として盃を授けられますが、突然それを叩きつけると、孫権の胸倉をつかみ、「わしが誰かわかるか」と言った後、「我こそは関雲長なり」と叫びます。

呂蒙はそのまま床に倒れこみ、七つの穴から血を噴き出して死んでしまうのです。

関雲長とはもちろん関羽のことで、関羽が呂蒙に乗り移って死に至らしめたというエピソードです。

このインパクトの大きさにより、呂蒙は関羽の呪いで死んだという話が伝わってきたのです。

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関羽を裏切ったことで呪われた!?

荊州南部を巡って微妙な関係だった蜀と呉ですが、呉の前任者魯粛は蜀に好意的でした。

しかし、彼が亡くなり呂蒙が赴任することになります。孫権は魯粛の路線を取り、縁談をもちかけるなどの関係を築こうとしますが、呂蒙は「必要なし!」と言い切ります。

ですが、表面上は関羽と友好的な態度を取っていました。ただ、腹の内では関羽を倒すことを考えていたのです。

関羽は呂蒙の態度に気を緩めており、樊城攻めの際に呉への備えを手薄にしてしまいました。

呂蒙はこれを好機とし、病と称して孫権と策を練り、さらには関羽と配下の糜芳(びほう)と士仁が彼と不仲であることに付け入り、寝返らせたのです。

そして、公安と南都を占領し、関羽の破滅を招いたのでした。

とはいっても、これが呪われるようなことだとは思えません。計略で戦に勝ったというだけのことではあるのですが…。

関羽の死から呂蒙の死までの経緯

樊城攻めに失敗した関羽は退却しますが、すでに配下が裏切り、公安と南都は呂蒙の手に落ちています。

そこへ進軍してきた孫権軍は、益州への退却をはかった彼の退路を断ちます。

どうしようもなくなった関羽は、捕えられて斬首されてしまうのでした。

間もなく、呂蒙は病に倒れます。孫権は何とか彼を助けようと様々な手を尽くしますがかなわず、219年末に彼は亡くなりました。42歳の若さでした。

実際の呂蒙の死因

死の原因について、正史には記述がありません。

ただ、短期間で病を得たのでしょう。樊城の戦いが219年で、彼の死は219年末です。元々何か病気があったのかもしれません。

まとめ

オカルトっぽく壮絶な話ですが、これが関羽の「漢=おとこ」のイメージに合わないと、近世では削除されることもあります。

演義では続きがあり、恨みを抱えて彷徨う関羽の魂に対して、和尚が「じゃあお前に殺された顔良や文醜なんかはどうするんだ」と言うと、関羽の魂は悔い改めて成仏し、やがて神の位に上ったというものです。

関羽が現在も神として崇められていることに対する、一種の裏付けですかね。呂蒙が早くに亡くなってしまったことも、残念です。

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xiao

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投稿者プロフィール

イケメンでインテリで強い男が好きです。その中に人間の可愛げがあったら最高です。
三国志にはそんな人物が多すぎて、誰が一番なんて言ってられないのが現状です。
そんな魅力的な歴史絵巻を、わかりやすくお伝えできたらと思っています。
動物好きのため、赤兎馬に憧れています。

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