隻眼の将軍 夏侯惇が左の目玉を失ったわけ

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曹操の右腕として印象深い夏侯惇ですが、彼の特徴といえば隻眼。

そのため、夏侯姓が多く登場する三国志では、初心者にとって比較的覚えやすい人物だったりもします。

夏侯惇はどのようにして左眼を失ったのでしょうか。

呂布征伐での不運

194年、曹操は陶謙征伐のため徐州へ向かい、兗州の守備を荀彧・夏侯惇にさせていました。

その兗州で、夏侯惇は窮地に陥ります。曹操と親しかったはずの張邈が陳宮と結託し、反旗を翻しました。彼らが兗州に呂布を迎え入れると、これに大半の群・県が呼応。夏侯惇のまわりは一変し、敵になったのです。

寡兵となった夏侯惇は、残された曹操の家族の元へ向かいますが、道中で呂布軍と遭遇。交戦するも、捕らえられた挙句、人質にされてしまいました。

しかし、夏侯惇の部下・韓浩は敵の脅しに屈さず、人質が捕らわれたままのところへ攻撃します。

金品が目的だったため夏侯惇はあっさり解放されましたが、この時ばかりは生きた心地がしなかったでしょう。後に曹操は、韓浩のこの行動を称賛しています。

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左眼を失う

その後、夏侯惇は徐州から戻った曹操と共に雪辱を果たそうとしますが、この戦闘中に流れ矢を左眼に受けてしまいます。

これが元で、彼は隻眼となったのです。

軍では同じ夏侯姓である夏侯淵と区別するため、盲夏侯と呼ばれたそうです。夏侯惇はこれがとても嫌で、鏡を見るたびに怒り、それを投げつけたとあります。

真面目な性格だったようですから、渾名のことより、矢を受けた自分に対しての怒りがあったのではないでしょうか。

夏侯惇の生年が不明なため、彼が何歳で隻眼になったのかはわかりません。ちなみに、この頃の曹操は40歳ごろです。

三国志演義での夏侯惇

演義ではこの隻眼に、派手なエピソードが付け加えられています。

戦闘中、呂布配下・曹性の射かけた矢が、夏侯惇の左眼に突き刺さります。すると、彼は刺さった矢を眼球ごと引き抜いて「父母から貰ったものだ、捨てるわけにはいかない」と、それを飲み込み、すぐに曹性を刺し殺しています。片目を失くしても物ともしない、随分と豪胆な振る舞いです。

正史に、「14歳のとき、先生について学問したが、その先生を侮辱した男がいたので、夏侯惇はその男を殺害した。」とあります。

そのため、情や恩義を重んじる部分が強調されたのでしょうか。それでも、大事だからといって、なにも食べなくても……と思ってしまいますが。

曹性を殺した後は、夏侯淵に守られて陣へ戻っています。

後に、口の悪い禰衡からは「五体満足将軍」と皮肉られたりもしていました。

まとめ

夏侯惇にとって、隻眼は勲章には思えなかったのかも知れません。

それでも、見る側にとっては戦いを生き抜いた証のように感じられます。演義のエピソードが無かったとしても、勇敢な将のイメージは変わらなかったでしょうね。

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高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

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