演義ではやられ役の曹操の従弟 曹仁ってホントに名将だった!?

Sponsored Links

曹仁というと、演義では登場回数が多い割に、徐庶や諸葛亮に翻弄されるなど、あまりカッコいいところが見られない人物です。

しかし、曹丕の代には大司馬まで昇っています。実際の曹仁は、そんなに功績をたてた人物なのでしょうか。

正史における、彼の主な活躍を見ていきましょう。

古参の臣下として

曹仁は168年に生まれていますから、曹操より13歳下になります。曹仁の祖父は、曹操の養祖父の兄であるため、この二人は血の繋がらない従兄弟同士ということになります。(大叔父の孫ですから、正確には、はとこ・再従兄弟ですね)歳が離れていますから、曹操は弟のように感じていたのかも知れません。

袁術討伐の際は多くの敵を殺し、生け捕りにしたとあります。

その後、献帝を迎えて許昌へ首都を置くことにあたり、曹仁は度々功績をあげたため、広陽の太守に任命されました。

しかし、曹操は彼を高く評価していたため、曹仁を広陽郡には赴任させず、自分の手許に置いて騎馬隊を指揮させています。余程、彼を頼りにしていたのでしょうね。

Sponsored Links

功績をあげ続ける

官渡の戦いの最中、劉備が許昌周辺を攻撃し、多くの県を袁紹側に寝返らせた事がありました。

曹仁は、不安がる曹操に「南方は、我々が戦で救援等に人手を割けない状況だと判断しています。そこへ劉備が軍を率いてやってきたのですから、彼らが反旗を翻すのは当然です。しかし、劉備は袁紹の下に来て日は浅いですから、攻撃すれば破ることが出来ます。」と進言。

曹操がこれを受け入れると、曹仁は宣言通り劉備を撃破し、寝返った諸県を全て取り戻しています。さらに帰還後は、交通を遮断していた別動隊を破った上、袁紹の輸送車を奪い、食料を焼き払いました。正に、八面六臂の活躍です。

また、長く陥落させられなかった壺関(こかん)を包囲した時は、「城を包囲した際、必ず敵に対して、生き残る道を開いてやらなければなりません。殿は、彼らを生き埋めにせよと命令しておられるので、敵は必死に守っているのです。加えて食料も豊富なため、包囲を続ければまだ日数はかかることになります。このまま攻撃するのは良策ではありません。」と進言しています。曹操がこの意見に従うと、城は降伏しました。

実際の曹仁は、将たる才能に満ちていたようです。問題が起きても冷静に対処し、曹操の憂いを断っていました。

寡兵で牛金を救う

そして、曹仁の武勇を語る上では外せないエピソードがあります。

208年、荊州で周瑜軍と対峙した時の事です。

敵の先鋒に対し、300人の兵士とともに部下の牛金(ぎゅう きん)を当たらせました。しかし、敵の先鋒は数千人と数が多過ぎたため、すぐに包囲されてしまいます。

ここで曹仁は、側近が止めるのも聞かずに鎧を着けて馬に乗り、救援に走ります。

しかも、直属の勇士を率いていたとはいえ、その数は僅か数十騎。寡兵ゆえに何か策があるのかと思いきや、曹仁はなんと、敵の包囲網にそのまま突っ込んでいったのです。

この勇敢な行動によって牛金は救われますが、曹仁はさらに、取り残された他の兵のため再度包囲網の中へ引き返し、助けています。

帰還した曹仁に対し部下達は、「将軍は正に天上世界のお方だ。」と心服したといいます。

結局この戦いでは南郡を失いましたが、周瑜に深手を負わせ、一矢報いています。

12c697734bb887daeff33d9c288968df_s

まとめ

樊城を死守した話は有名ですが、それ以前にも曹仁は、魏の要として危機を幾度も救っていました。

正史における「傅士」では、「張遼は彼の次に位する」とまで書かれています。ちょっと持ち上げすぎじゃないかと思いますが、曹仁はそれほどの名将だったのです。だからこそ、演義ではやられ役になってしまったのでしょうか……。

Sponsored Links

この記事が気に入ったら
いいねで三国志の小ネタをお届け!

スリーキングダムズの最新情報をお届けします

Twitterでスリーキングダムズをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

高村真琴

高村真琴

投稿者プロフィール

猫とお酒と三国志が好きな一児の母です。
項羽と劉邦からハマってしまい、漢書と正史は既にバイブルの域に。中華街に行くのも大好きで、三国志グッズを探しては買い集めています。
わかりやすく、読みやすい文章を心がけて書いています。

この著者の最新の記事

カテゴリー

ページ上部へ戻る